皆様、こんにちは!!
bikeportスタッフの奈須野です。
本記事は、明智光秀さん寄りの文体が続きますが、あくまでも個人的見解、冗談であり、他の武将の方々、ファンの方々を軽んずるものではございません。
油圧ディスク グラベルロードで行く 光秀 信長 秀吉の旅 その2
の続きとなります。
山崎の戦いで、秀吉軍に苦杯をなめさせられた光秀公は、再起を図るべく居城である琵琶湖ほとりの坂本城に向け撤退を開始しました。
しかし!!
誠に残念ではありますが、現在の京都市伏見区小栗栖付近で、自刃、あるいは落ち武者狩りにあったとも言われております。
現在は、明智藪(あけちやぶ)として知られております。
明智藪を目指して、15kmほど北上します。
大河ドラマ効果か、たくさんののぼりがひるがえっておりました。
わずか一回の敗北で、全てを失ってしまうとは、なんという無常でしょう。
明智光秀公の冥福をお祈り致します。
琵琶湖に到着致しました。
そのすさまじい巨大さに、海としか思えず、なんとも不思議な気持ちになります。
琵琶湖から、園城寺(おんじょうじ)に向かいます。
園城寺は別名、三井寺(みいでら)とも言われ、延暦寺焼き討ちの際は、信長が三井寺に本陣を構えたり、秀吉の妻・高台院が本堂を再建したりと、古くから武家とのかかわり合いが強いお寺でした。
今回の私的なお目当ては、前述しました高台院の再建した本堂と、新羅善神堂です。
これまた私的なお話になりますが、私、武田信玄公が大好きで、武田家のご先祖様である新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)公が、元服式をあげたのが、この新羅善神堂前でして、どうしても行ってみたかったのです。
本堂は見事としか言いようのない、美しい、尊いという表現が似合う素晴らしい建物でした。
新羅善神堂は、今では参拝する人も少ないのか、うっそうとした森の中にありました。
ここが甲斐源氏の始祖、新羅三郎義光公の出発点か!!と思いますと、すこぶる感激致しました。
義光公の墓所です。
安土桃山時代の宣教師、ルイス・フロイスの言によりますと、坂本城は、安土城に次ぐくらい壮大なお城であった、とのことですが、現在は見る影もなく、遺構はほとんど残っておりません。
光秀公の像は、妙にずんぐりむっくりしておりまして、個人的には違和感を覚えます。
信長との因縁が深い、延暦寺に向かいます。
しかし、ここからが悲劇の始まりでした。
本日はこのあたりで宜しいと存じます。
それでは、皆様、次回お会いするときまで、ごきげんようです!!
以上、bikeportスタッフの奈須野でした。